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大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)573号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

関戸一考

上山勤

被告

財団法人住友病院

右代表者理事

新井正明

右訴訟代理人弁護士

四ツ柳浩

主文

一  被告は原告に対し金三〇万円及びこれに対する昭和五九年二月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二〇分し、その一九を原告の負担、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金一〇〇〇万円及び昭和五九年二月一二日より支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

亡甲野月子(以下、月子という。)は昭和五年七月一六日生まれの女性、原告は同女の娘であり唯一の相続人である。被告は、月子に対し子宮癌の診断を下し、同女に子宮及び卵巣の摘出手術をした病院である。

2  事実の経過

(一) 原告の家系は癌で死亡する者が多かつた。そのため月子も自身が癌年齢となつて以来、癌の早期発見に努め、昭和五二年三月一六日、同月三〇日、同年一〇月二六日、同年一一月二日、昭和五三年七月一七日、同月二四日、昭和五四年六月二九日、昭和五五年二月二二日、昭和五六年一月二三日の九回にわたつて被告病院で実施される癌検診を受診していた。

(二) 月子は、昭和五六年一月一五日頃より性器出血が止まらず、同月二三日被告病院で実施された癌検診を受診した際、担当の椋野医師に対し不正性器出血を訴えたが、右検診の結果は異常なしとの診断であつた。

(三) しかし、その後も不正性器出血が続き、一か月以上にわたる異常出血に不安を募らせた月子は、同年二月一七日、再度の検診を求めて被告病院を訪ずれ、担当の伊藤裕医師にそれまでの経過と体調の異変(不正性器出血)を訴えた。ところが伊藤医師は、特段詳しい検査を行わずに更年期障害症と診断し、月子の不正性器出血の訴えに対しても更年期障害に伴う月経不順と説明するにとどまり、更年期障害に起因する頭重感・肩凝りなどに効用があると思われるツムラ加味逍遥散という漢方薬を投与したのみであつた。

(四) それ以後も右不正性器出血が止まらなかつたため、同年六月一一日、月子は被告病院を訪ずれ、担当の廣瀬多満喜医師に同年一月一五日から三月中旬まで順調な月経があつたが、同年三月二日から時々、同年四月四日から六月一一日までは継続して性器出血が続いている旨訴えて三度目の診察を求めた。しかし廣瀬医師は十分な検査を実施することなく更年期出血と診断し、「もう二、三週間で止まります。」と月子に説明し止血剤を投与したのみで帰宅させた。

(五) 同年六月二五日午後一〇時半過ぎ頃、月子は性器から約四〇分間にわたる大量の出血をして失神し、原告によつて被告病院にかつぎ込まれた。その日の当直勤務であつた大本(旧姓和田)志保子医師(以下、大本医師という。)は、月子の下腹部に対する触診によつて即座に大きな筋腫を発見し、月子と原告に「こんなに大きな筋腫が、今まで来ていてどうして見つけてもらえなかつたの。」と声をかけながら応急処置及び子宮内膜組織の検査を行つた。

(六) 月子は同年七月四日被告病院に入院し、同日原告は月子が子宮癌である旨宣告されたが月子には右事実が秘されたままであつた。そして同月八日、月子の癌が子宮体癌であるとの判断の下に子宮及びその付属器の摘出を行う単純子宮全摘出術が実施されたが、手術後原告は担当の椋野医師から子宮の三分の二以上が癌に罹患して通常の二倍以上にも子宮が腫れ上がつており子宮のみならず卵巣も全部摘出せざるを得なかつたとの説明を受けた。なお、手術後、摘出した月子の子宮を切開観察した結果、月子の癌は子宮頸部癌であることが明確になつた。

(七) 手術後、月子に対して大量の抗癌剤が静脈内に点滴投与されたが、同年八月一一日午後一時四五分頃、第八回目の抗癌剤の投与が椋野医師によつてそれまでと同様点滴の方法で実施されたが、点滴開始約一〇分経過後、点滴を受けている右手に強い痛みを覚えた月子は輸液が漏れているのを発見して看護婦詰所にナースコールし、駆けつけた堀川(旧姓多久島)千鶴看護婦(以下、堀川看護婦という。)にその旨を訴えた。ところが堀川看護婦は右状況を目撃しながら何ら適切な処置を施すこともなく、また月子が苦痛を訴えるのを無視したため、輸液が漏れたまま点滴が終わるという事態となり、これにより月子の右手首から先はグローブ様に異様に腫れあがり動かすこともできない状態となつた。点滴終了後それを見つけた別の看護婦が椋野医師を呼んだが、駆けつけた椋野医師は「まんが悪かつたんや。」と言つたのみで自らが謝罪することも、また堀川看護婦に謝罪させることもしなかつた。その後月子の右手の腫れは徐々に引いたものの、指で自由に物を掴むことができない状態となり、治癒する見込のない障害を残す結果となつた。

(八) 月子は被告病院を退院後程なく癌を再発し、昭和五八年二月二二日星ケ丘厚生年金病院で五二歳の生涯を終えた。

3  被告の責任

被告は椋野医師、伊藤医師及び広瀬医師の雇用主であり原告が診療を受けた際の診療契約の一方当事者であるが、右各医師には以下に述べるような診療上の過誤があるから、被告は診療契約上の債務不履行責任を負う。

(一) 前記2(二)のとおり、昭和五六年一月二三日の癌検診の際、椋野医師は更年期の婦人である月子から不正性器出血の訴えを受けたのであるから、まず子宮癌を疑い、その疑念を払拭すべくより徹底した検査を行うべきであつた。すなわち椋野医師は、細胞診についても通常の癌検診の際に行われる単なる綿棒等による細胞採取のみならず、子宮内部を洗浄して細胞を採取したり、多数回多数箇所から細胞を採取するなどして、組織診の検査対象となる異常部位の発見に努めるべきであつた。しかるに椋野医師は右のような徹底した検査をすべき注意義務を尽さず、漫然と通常一般の癌検診と同様の方法による細胞診しか実施せず、その結果月子の子宮頸部に発生していた腺癌を見落し、月子が早期に右癌の摘除手術を受ける機会を奪つた過失がある。

(二) 前記2(三)のとおり、昭和五六年二月一七日伊藤医師は月子から不正性器出血の訴えを受けたが、この異常出血は同年一月二三日の定期癌検診以前から続いているものであるにもかかわらず右定期癌検診で実施された一般的検査では異常なしとの結論しか出なかつたのであるから、伊藤医師としてはこのような長期間にわたる異常出血の原因を究明するためにより精密な癌検診、すなわち細胞診・組織診等を徹底して実施すべきであつた。また仮に月子から不正性器出血の訴えがなかつたとしても、約一か月前に癌検診を受けたばかりの月子が重ねて婦人科を訪れ受診を希望したのであるから、伊藤医師としては異常出血の有無等について月子に十分な問診を行うべきであり、そうすれば月子の不正性器出血の事実を容易に知り得たはずである。しかるに伊藤医師は十分な問診を行うべき注意義務も、細胞診等の検診を徹底して実施すべき注意義務も尽すことなく、単に同年一月二三日の定期癌検診の結果異常なしと判定されたことに基づいて更年期障害症と誤診し、そのため月子の子宮癌の発見を遅らせ早期に摘出手術を受ける機会を失わせた過失がある。

ちなみに、細胞診による子宮頸癌の正診率は九五%といわれている。したがつて機械的にいえば、一月二三日に引き続き二月一七日も細胞診を実施していた場合、連続して判断を誤る(細胞が採取されない等の理由による)場合は極めて低くなつたはずである。

(三) 前記2(四)のとおり、昭和五六年六月一一日廣瀬医師は月子から長期間にわたる不正性器出血の訴えを受けこれをカルテに記録したのであるから、当然子宮癌の存在を疑い、細胞診・組織診・触診等可能な限りの検査を徹底的に実施すべき注意義務があつたにもかかわらず、約四か月前に月子を診察した伊藤医師が暫定的に下した更年期障害症の診断に惑わされ、伊藤医師が経過観察の必要から月子に二週間後に来院受診するよう指示している事実さえも見落とし、更年期出血と誤診し、そのため月子の子宮癌の発見を遅らせより早期に摘出手術を受ける機会を失わせた過失がある。

更年期の婦人の不正性器出血が続いている場合、明確にその原因が癌以外のものと判明している場合以外は、一かき掻爬をするなりして必ず癌検査をすべきであり、もし廣瀬医師がそれを正確に実施していれば六月一一日の時点で既に発生していた子宮頸部癌を発見していたであろう可能性が高く、摘出術などの外科的施術を七月八日よりも数段早く行うことができたはずである。月子の手術が七月八日までずれ込んだ理由は、大量の性器出血による体力の低下が著しくすぐ手術ができなかつたためであり、その意味において右誤診は極めて重大である。

(四) 前記2(六)のとおり、昭和五六年七月八日月子は被告病院において子宮癌の摘出手術を受けたが、右手術を担当した椋野医師は手術前診断として子宮体癌と考えていたところ、開腹した結果子宮頸部癌の可能性があることが判明した。一般に子宮頸部癌の場合には子宮の入口付近が癌に侵されていることから子宮外への転移の可能性が強く、ごく初期の場合を除いて子宮及びその付属器のみの摘出を行う単純子宮全摘出術が行われることはなく、子宮、その附属器及び子宮傍結合組織のほとんどと膣の上部を一緒に摘出する広汎子宮全摘出術を行うのが通例である。したがつて、月子の場合も子宮頸部癌の可能性が判明した時点で広汎子宮全摘出術に切換えるべきであつたにもかかわらず、椋野医師は不十分な単純子宮全摘出術を実施し、その結果月子に癌の再発を生ぜしめた過失がある。子宮頸部癌の場合、Ⅰ期のbであれⅡ期のaであれ、広汎子宮全摘出術をすべきであり、単純子宮全摘出術では不十分である。甲第二七号証の五、六では、広汎子宮全摘出術と骨盤内リンパ節郭清術を必ず行うと明言している。子宮頸部癌の摘出術が的確に行われた場合その五年後治癒率(一般にこれを永久治癒率とみなす。)は八〇%の高率といわれている。

4  被告病院の債務不履行による月子の死

(一) 昭和五七年八月三一日星ケ丘厚生年金病院において月子の膣断端部の細胞診によつて腺癌の発生が確認された。被告病院で摘除した癌も腫瘍組織的由来で分類すれば腺癌であり、星ケ丘厚生年金病院で発生が確認された膣断端部は正に被告病院で摘除した癌部位と連続する部位である。したがつて星ケ丘厚生年金病院で確認された月子の癌は被告病院で摘除した子宮頸部癌が再発したものであり、右再発癌の浸潤によつて癌性悪液質が発生し、それが心不全を惹起させて月子を死に至らせたのである。

(二) 昭和五六年一月二三日の癌検診時に椋野医師が前記3(一)の注意義務を尽して徹底した検査を実施しているか、同年二月一七日の診察時に伊藤医師が前記3(二)の注意義務を尽してより精密な検査を実施しておりさえすれば、当時月子が罹患していた子宮頸部癌の発生を発見することができたはずであり、したがつてその当時進行していなかつた癌を早期に摘出できたはずである。子宮頸部癌の摘出術が的確に行われた場合の五年後治癒率は良好であるから、その当時的確な癌の摘出術が実施されておれば、癌の再発はなかつたはずであるし、その癌のために月子が死亡するということもなかつたはずである。

また、昭和五六年六月一一日の診察時に廣瀬医師が前記3(三)の注意義務を尽して徹底的な検査を実施してさえおれば、子宮頸部癌を発見することができたはずであり、その後わずか二週間で急速に症状が急変進行した癌の急変進行前に癌を摘出できたはずである。その当時的確な癌の摘出術が実施されておれば、癌の再発はなかつたはずであるし、その癌のために月子が死亡するということもなかつたはずである。

また、昭和五六年七月八日の手術の際椋野医師が前記3(四)の注意義務を尽して適切な広汎子宮全摘出術を実施し、以後適切な管理が行われていたならば、右時点における癌の進行状態を前提としても五年後治癒率は約八割であるから、癌の再発はなかつたはずであるし、その癌のために月子が死亡することもなかつたはずである。

以上の各段階のうちより早い段階で前記の債務の本旨に従つた診療義務が尽されていればいるほど高い率で月子は治癒を期待し得たのであり、被告病院は以上一連の債務不履行によつて癌の再発、増悪を招来し、もつて月子を死に至らしめたものというべきである。

ガンに対し摘出術を施し、五年後治癒率が何%という形で将来を述べることは可能であるが、月子個人の場合にどうかということは何ともいえない。ガンの発症の機序等の解明が未だなされきつていない今日、科学的に不可能なことである。したがつて本件のような場合、昭和五六年七月八日時点、あるいはそれ以前の時点で適切な検査に基づく施術がなされていたならば月子は必ず生存したことを証明することは不可能である。もし左様な立証を要求されるなら未だ一部分の機序しか解明されていない様な疾病に関する医療過誤については全く問責することが不可能となつてしまうであろう。むしろ個別的には不明な点が残るとしても統計的に意味のある五年後治癒率(完全治癒率)であるとか転移率などに基づき、通常治癒を期待できるか否かでもつて判断がされるべきである。したがつて治癒率が五割という様な場合は何ともいいがたいが、八割を超える様な場合、甲野月子は通常のケースとして治癒を期待しえたと考えるべきである。逆に言えば、被告病院の債務不履行により同女は右の一般的な無理のない期待を打ち砕かれ、死という転帰をむかえたものであり、その責は被告病院にあるというべきである。ちなみに、統計的に最も合理的な推測と言えるためには統計資料のデータが統計的に有意であるか否かの検定もされている方がベターであるが、人の生死にかかわることでもあり、未だ十分な治癒率の資料は存在しない。しかし、かような資料の不備を一方的に原告の負担に帰せしめることは妥当でなく、臨床医としての経験(伊藤医師)、あるいは大学病院の臨床例(長崎大学の例が甲二七号証、神戸大学の例が甲一号証)など、現存する資料・材料に基づいて合理的に判断されるべきである。

なお、被告が適切な処置を施していたならば、少なくとも月子の生存期間が伸びて、現実に死亡した昭和五八年二月二二日以降の延命が期待し得たことは否定することができない。

5  抗癌剤投与時における月子の受傷

前記2(七)のとおり、月子は被告病院において抗癌剤の点滴投与を受けていた際に輸液漏れの事故が発生し、これによつて右手指に機能障害が残り自由に物を掴むことができない状態になつた。点滴の際の輸液漏れは時々起こる事故であり、まして本件は抗癌剤という劇薬の点滴投与であつたのであるから、被告病院としては常に正常に点滴が行われ輸液漏れが起らないように注意し監視すべき義務が存在したにもかかわらず、被告の被用者である堀川看護婦は月子の輸液漏れ及び当該部位の強い痛みの訴えに十分耳を傾け、輸液漏れがないよう適切に処置すべき義務を怠り、輸液漏れを起こしていないと誤認し、適切な処置をしなかつたために月子の右手に右の如き重大な傷害を生じさせた。

6  損害

(一) 逸失利益

一六三八万四二〇一円

月子が死亡によつて失つた将来得べかりし利益は(就労可能年数一五年)、昭和五六年の賃金センサスにおける五二歳女性の平均賃金を基礎(生活費控除三割)にしてホフマン係数10.981を適用してその現価を計算すると、次の計算式のとおり一六三八万四二〇一円となる。

(14.22万×12)+42.51万=213.15万円(年収)

213.15万×(1−0.3)×10.981=1638万4201円

(二) 慰謝料 一三〇〇万円

被告の前記債務不履行によつて月子が子宮癌の発見の遅れによる病苦、輸液漏れによる右手の傷害、さらに満五二歳で死亡せざるを得なかつたこと等で被つた精神的苦痛に対する慰謝料は一三〇〇万円を下らない(そのうち、輸液漏れに起因する傷害による精神的苦痛に対する慰謝料は一〇〇万円を下らない。)。

(三) 葬儀費用 二〇〇万円

原告は月子の唯一の相続人としてその葬儀を行い、その費用二〇〇万円の支出を余儀なくされた。

(四) 損害金合計

三一三八万四二〇一円

7  よつて原告は被告に対し、債務不履行による損害賠償請求権に基づき、右損害の内金一〇〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和五九年二月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否〈省略〉

第三  証拠〈省略〉

理由

一当事者

月子が昭和五年七月一六日生まれの女性であつたこと、被告病院医師が月子に対し子宮癌の診断を下し、同女に子宮及び卵巣の摘出手術をしたことは、当事者間に争いがない。また原告本人尋問の結果によると、原告が月子の娘で、唯一の相続人であることが認められる。

二被告病院における月子の癌検診

月子が昭和五二年以来いわゆる癌検診受診のために被告病院に来院していたこと及び昭和五六年一月二三日にも被告病院に来院し子宮癌検診を受診したことは、当事者間に争いがない。そして右争いがない事実、〈証拠〉を総合すると次の各事実を認めることができ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  昭和四〇年に月子の母がリンパ腺腫瘍で死亡し、昭和四五年に同女の夫が臓癌で死亡するなど癌に罹患して死亡する者が続いたため、月子はいわゆる癌年齢に差し掛つた頃から癌には特に気を配るようになり、被告病院において胃・肺・子宮の癌検診を定期的に受診していた。

2  右のうち子宮癌検診については、昭和五二年三月一六日に初めて受診し、その後同年一〇月二六日、昭和五三年七月一七日、昭和五四年六月二九日、昭和五五年二月二二日、昭和五六年一月二三日の六回子宮癌検診を受診し続けた(昭和五二年三月三〇日、同年一一月二日、昭和五三年七月二四日の被告病院来院は直前の子宮癌検診の結果を聞き、かつ次回の検診を予約するためのもの。)。

3  一般に子宮癌検診の方法としては、パパニコロすなわち生体組織や臓器から自然剥離した細胞あるいは鋭匙・鈍匙・綿球・綿棒等の道具を使つて人工的に剥離させた細胞を採取し、その中に癌細胞があるかどうかを形態学的に観察するいわゆる細胞診と、コルポスコープすなわち拡大鏡を使用して子宮癌の好発部位である子宮膣部等に異常があるかどうかを観察する拡大鏡診とがある。そして一般の子宮癌検診ではパパニコロのみのところが多いが、被告病院においては常にパパニコロとコルポスコープを併用し、パパニコロについては通常子宮膣部の表面と子宮頸管の内面の二か所で、特に子宮がかなり膨大し、かつ不正出血が認められるようなときは子宮体部の内膜からも細胞を採取して異常の有無を検査し、またコルポスコープについては子宮膣部の細胞の扁平上皮及び円柱上皮の状態(それがすつきりと明瞭に見えるならば正常。)を観察する方法を採用していた。さらに右各細胞診によつて何らかの異常所見が認められる場合や患者の主訴等から子宮癌罹患の疑いがあるときには、異常が認められる箇所の組織をパンチなどで採取、あるいは子宮内膜の組織を消息子で掻爬して採取し癌細胞の有無を検査するいわゆる組織診を実施するのが通例である。

4  そして昭和五五年二月二二日までの月子の子宮癌検診の結果をみると、昭和五二年一〇月二六日の検診以外ではパパニコロ及びコルポスコープともに異常所見は認められず、昭和五二年一〇月二六日の検診ではコルポスコープによつて細胞にグルント様すなわち血管増殖等による血管の点状変化が認められたため、パンチによつて異常箇所の組織を採取して病理検査を行つたが、表面の扁平上皮層が強く肥厚して上皮下組織に炎症細胞浸潤が軽度に認められるものの悪性所見はなく、結局慢性の頸管炎と診断された。

三昭和五六年一月二三日の癌検診について

1  昭和五六年一月二三日月子が被告病院で子宮癌検診を受診したこと及び右検診の結果被告病院が異常なしと診断したことは当事者間に争いがなく、右争いがない事実、〈証拠〉によると、次の事実を認めることができる。

昭和五六年一月二三日、子宮癌検診のために被告病院に来院した月子は、受診前に記入し提出した問診票(選択肢に丸印を記入するようになつている。)には出血及び帯下(こしけ)についてはいずれも「ない」、月経は「順調」であるが量は「多」と記載した。右記載は看護婦によつて子宮癌検診カードに転記され、当日の担当医であつた椋野医師は右記載内容に目を通したうえで月子を診察したが、同女の報告によると最近月経は同年一月一五日から二一日までの七日間ということであり、当日診察時にも不正出血は認められなかつたため、通常のパパニコロ及びコルポスコープの検査のみを実施し、子宮内膜細胞診や子宮内膜掻爬等の子宮体癌に関する検査は実施しなかつた。またコルポスコープによる観察の結果でも全く異常は認められなかつたため、椋野医師はさらに進んで組織診を実施することなく検査を終了させ、右検診の際採取した細胞の検査結果は同年二八日に判明したが、そこでも全く異常は認められなかつた。

以上のとおり認められる。右事項に関し、月子の手記である甲第六号証及び原告本人尋問の結果中には月子は同年一月一五日以来の出血が止まらないまま同月二三日の子宮癌検診を受診した旨の記載ないし供述が存するが、右記載ないし供述は前掲各証拠に照らしてにわかに措信し難く、他に前記認定を覆すに足る証拠はない。

2  原告は、右子宮癌検診の際に椋野医師は月子から不正性器出血の訴えを受けたのであるからより徹底した方法による子宮癌検診を実施すべきであつた旨主張するが、右子宮癌検診の際月子が椋野医師に不正性器出血を訴えた事実を認めるに足りる証拠はなく、かえつて前記認定事実に徴すると右事実の存在は否定的に解さざるを得ないから、右事実の存在を前提とした原告の主張は理由がないというべきである。もつとも月子は右子宮癌検診の問診票に最近の月経の際の出血量が通常より多かつた旨記入しており、これと前記甲第六号証の記載を併せ考えると、右子宮癌検診の直前の通例の月経時に通常よりも多量の出血があつたが、当時月子は右出血をあくまで月経によるものと考えていたため右検診時にもその旨報告したこと、そして月子の右月経異常の報告を椋野医師も認識していたことは、子宮癌検診のカルテである甲第四号証の「④月経異常」に丸印が付され、その末尾に「多」と手記されていることから明らかといえるけれども、証人伊藤裕の証言によると、一般に月経異常の一類型としての過多月経の原因として考えられるものは、まず子宮筋腫、次がホルモン性の機能疾患であつて、子宮癌に起因して過多月経が生じることは少なく、過多月経と子宮癌を結びつけて診断する必然性はないと認められるから、椋野医師が月子につき被告病院で一般に実施されているパパニコロとコルポスコープの検査のみを実施し、それ以上の子宮内膜等の組織診を実施しなかつたとしても、その点について椋野医師に過失があつたと考えることはできないというべきである。

四昭和五六年二月一七日の診察について

1  昭和五六年二月一七日に月子が被告病院に来院し伊藤医師の診察を受けたことは当事者間に争いがなく、右争いがない事実、〈証拠〉によると、次の事実を認めることができる。

昭和五六年二月一七日月子は被告病院に来院して当日の担当医であつた伊藤医師の診察を受け、最近の月経が同年二月一〇日から二日間であつたこと、頭重感・肩凝りがすること、粘液様の帯下が続いているが掻痒感はないことなどを伊藤医師に訴えた。伊藤医師が月子を診察したところ子宮体は通常の大きさであり、子宮附属器にも異常はなく、子宮膣部もきれいな状態であり、また不正出血は認められず、粘液様の分秘物も特に異常と認められるものではなかつたため、伊藤医師は月子の主訴及び右診察の結果に基づいて、体質虚弱な婦人に自律神経・内分秘などの機能失調によつて現われる更年期障害症と一応診断し、更年期障害に効果のある漢方薬ツムラ加味逍遙散を二週間分投与し、二週間後に再来院するよう月子に指示した。右指示は二週間の右漢方薬服用による効果をみたうえで、もし症状に改善がみられないようであれば別の疾患の可能性を検討しようという伊藤医師の考えによるものであつた。しかし月子は右伊藤医師の二週間後再来院の指示を守らず、次に月子が被告病院の産婦人科で受診したのは約四か月後の同年六月一一日であつた。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。もつとも、原告は、その本人尋問において、右診察日当日被告病院からの帰途原告宅に立ち寄つた月子から、その日被告病院の産婦人科の担当医であつた伊藤医師に月経がなかなか止まらず出血が少しずつ続いていることを訴えたところ、伊藤医師が月子に対し「更年期障害で心配はない、二週間後にまた来るように」と言つていた旨供述し、また〈証拠〉によると、昭和五六年七月四日の入院の際、月子は椋野医師に同年一月一五日から七日間月経があつた後出血が少量持続していたこと及び過去約六か月間(すなわち同年一、二月頃から)不正出血が時折あり、また時折生理様出血もあつたことを報告し、椋野医師がそれを入院診療録の現病歴欄に記載したことが認められるから、右二月一七日の診察日までに既に通常の月経とは異なる出血が月子に時折生じていたのではないかと考えられるが、しかし他方、月子の事後報告という点からみると同様の位置にある、〈証拠〉によると、昭和五六年六月一一日に被告病院で廣瀬医師の診察を受けたとき、月子は同年三月二日から時々少量の不正性器出血があると訴えているのであり、この訴えからみると、逆に一、二月には異常と思われる出血は存在しなかつたということになる。また、月子に関する被告病院の産婦人科外来診療録(乙第一号証)の昭和五六年二月一七日の欄をみると、ドイツ語で粘液状の帯下が続く旨の記載箇所から右上に矢印が記され、その先に出血が一月一五日より続いていたとの日本語の記載が見受けられるが、①二月一七日の経過欄の他の記載が全文ドイツ語で記載されているのに対し右出血の記載のみが日本語であること、②他の記載がすべて項目ごとに経過欄の各行の左端から整然と記載されているのに対し右出血の記載のみが行の途中から追加記載されたように書かれており、しかも筆記の丁寧さにおいて両者間に著しい差異があること、③右出血の記載中の日付の記載方法が伊藤医師のそれと異なつており、字体等が椋野医師のそれに似通つていることなどに鑑みると、右出血に関する記載は伊藤医師が二月一七日に記載したものではなく、証人椋野洋の証言のとおり月子の入院後に原告の報告に基づいて椋野医師が追加記載したものと認めるのが相当であり、他に二月一七日の欄に月子が不正出血を訴えたことを示す記載は見当たらない。そして〈証拠〉によると、一般に産婦人科の医師が通常の月経と異なる性器出血の訴えを患者から聞いたときには必ず診療録に記載することが認められ、前記乙第一号証の昭和五六年六月一一日(廣瀬医師記載)及び同月二五日(大本医師記載)の各経過欄をみても過去における出血態様、期間等に関する月子の訴えを克明詳細に記載していることと対比してみても、同年二月一七日の診察の際に伊藤医師が月子から不正性器出血の訴えを聞いたにもかかわらずこれを診療録に記載しなかつたとは考えられないし、また右出血の追加記載がそのままになつている乙第一号証に改ざんの徴表も全く認められず、以上の諸事実を勘案総合して考えると、結局、二月一七日の時点で月子が伊藤医師に不正性器出血を訴えた事実を認めることはできないといわざるを得ない。

2  原告は、仮に月子から異常出血の訴えがなかつたとしても、約一か月前に癌検診を受けたばかりの月子が重ねて婦人科を訪れ受診を希望したのであるから、伊藤医師としては出血の有無等について月子に十分な問診を行うべきであり、そうすれば月子の不正性器出血の事実を容易に知り得たはずであると主張する。しかし、当時月子に不正性器出血があつたか、月子がそれを自覚していたかについては、前記のとおりその有無を明確に認定し得る証拠に欠けるところであるうえ、前記認定のとおり、当日月子は伊藤医師に頭重感・肩凝り・粘液様の帯下など更年期に発現しやすい症状を訴えて診療を求めたのであり、伊藤医師は月子を診察の結果、不正出血、子宮体部の肥大、子宮膣部の糜爛など子宮癌罹患を疑わせる徴候が存在しなかつたこと、右診察よりわずか二〇日程前に月子がパパニコロ及びコルポスコープによる子宮癌検診を受診しておりその結果異常が認められなかつたことと月子の主訴とする頭重感や肩凝りが更年期障害特有の症状であることを併せ考え、とりあえずの結論として更年期障害症と診断し、ツムラ加味逍遙散二週間服用後の結果をみたうえで月子の病気の真相を把握しようと考えたものであり、伊藤医師の右措置に非難されるべき落ち度があると認めることはできない。

五昭和五六年六月一一日の診察について

1  昭和五六年六月一一日に月子が被告病院に来院し、診察に当たつた廣瀬医師に同年三月中旬頃までは順調な月経があつたが、同年三月二日頃から時々不正出血があり、同年四月四日頃から不正出血が続いている旨報告し、廣瀬医師の診察を受けたことは当事者間に争いがなく、右争いがない事実、〈証拠〉によると、次の事実を認めることができる。

昭和五六年六月一一日被告病院産婦人科を訪ずれた月子は、当日の担当医であつた廣瀬医師に対して、同年一月一五日頃から三月中旬まで通常の月経があり、同年三月二日から時々少量の性器出血があり、四月四日から右診察当日まで性器出血が続いたが右診察当日は月経様出血となり気分が良くなつたと症状報告をした。月子のような年配の婦人が産婦人科医に対して不正出血を訴えることは稀ではなく、廣瀬医師は月子の訴えを聞いて子宮筋腫、子宮膣糜爛、子宮癌、更年期出血等の可能性を考え診察に当たつたが、子宮体の大きさは双合診を行つた結果正常と判断し、子宮附属器及び膣粘膜にも異常を認めず、子宮膣部もきれいな状態であり、少量の血性分泌物が認められたものの、これも月経時には通常よくみられるものであつた。右診察当日はちようど月子の月経日に当たり、月経時には赤血球が細胞に附着して的確な判断を下せないことから細胞診を実施することを見合わせ、また当日の診察で子宮体の肥大や子宮膣部の糜爛といつた特に癌を疑うべき徴候も認められなかつたため、それまで被告病院で実施した月子の癌検診の結果も参考にして、廣瀬医師は組織診を現段階で直ちに行うことは不相当と考え、暫定的に更年期出血という診断名を附して経過観察していくこととし、その旨告知したうえ月経期が過ぎた後異常があればすぐ来院するように月子に指示し、投薬はしなかつた。

以上のとおり認められる。原告は、その本人尋問において、廣瀬医師が月子に「更年期障害だからあと一、二週間もすれば出血は止まる」旨話したと月子から聞いた旨供述するが、右供述は前掲各証拠に照らしてにわかに採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  ところで〈証拠〉によると、更年期の婦人が不正性器出血を訴えて診察を求めた場合、医師はまず子宮の悪性腫瘍、特に癌の可能性を考えて細胞診や子宮内膜の組織検査を実施し、悪性腫瘍の存在を否定できた段階で、次の子宮筋腫の可能性を、第三に内分泌異常に由来するいわゆる更年期出血の可能性を考えて検査を進めていくべきであり、このような除外診断法を採用することが疾患の軽重及び発生頻度を勘案した最も合理的診察方法であることが認められる。そうすると本件でも廣瀬医師は月子から通常月経とは異なる性器出血、特に二か月以上にわたる継続的な出血があるとの報告を受けたのであるから、まず最悪の場合である子宮癌等悪性腫瘍罹患の可能性から検討し、たとえ当日月子に月経が始まつて細胞診ができない状態であつたとしても組織診を実施すべきであつた(出血状態でも組織診は可能である。)のではないか、しかるに、廣瀬医師は当日の診察で子宮体の大きさや子宮膣部の状態等に癌を疑うべき特段の事情なしと考え、とりあえず経過観察を行うことが適当と判断して組織診を実施しなかつたのであるが、月子が右診察当日訴えた性器出血がその期間及び態様からみて異常なものであることは廣瀬医師自身認めるところであり(同医師の証言)、また〈証拠〉によると更年期の婦人の不正性器出血は子宮癌初期の第一の主要徴候であり、その訴えのみで子宮癌罹患を疑うに十分な理由があるといえるから、当日の診察において出血以外の癌の徴候が確認できなかつたという理由で当日即座に組織診を実施しなかつた点において、廣瀬医師の診療に非難されるべき落ち度があつたのではないかと考える余地がある。

六月子の癌の発見と子宮摘出手術

1  事実経過

昭和五六年六月二五日月子が被告病院に来院して大本医師の診察を受け、その結果大本医師が筋腫様のものの存在を認めたこと及び月子が同年七月四日被告病院に入院し、同日月子が子宮癌に罹患していると診断されたが月子にはその事実が秘されたままであつたこと、同月八日子宮体癌との判断のもとに子宮及びその付属器の摘出を行う単純子宮全摘出術が実施されたこと、手術後摘出した月子の子宮を切開観察した結果、子宮頸部癌であることが明確になつたことは、当事者間に争いがない。右争いがない事実、〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  月子は昭和五六年六月一三日頃から再び性器出血が続き、次第に大量の出血をするようになつて陣痛様の疼痛を伴うようになつたが、遂に同月二五日午後一〇時頃大量の性器出血が約四〇分間も続いたため貧血の事態が発生し、原告に付き添われて翌二六日午前〇時頃被告病院に緊急来院した。当直の大本医師が診察したところ、月子の子宮体は超鵝卵大(人の握りこぶしより小さいが鶏卵より大きい程度)に肥大して固く、寡動性はあるが圧痛はなく、子宮附属器周辺は両側とも抵抗がなかつた。子宮膣部はわずかに糜爛しており、粘膜は正常であるが血性中等量の分泌物と凝血が認められた。子宮腔長は一一センチメートルと測定され、子宮腔内はやや凹凸不整が認められ組織は脆かつた。大本医師は子宮腔内をひとかき掻爬して組織を採取し、それを病理部へ提出して検査を依頼したが、採取された組織は灰白色で軟かく表面が顆粒状の粗造な組織であつた。

(二)  大本医師によつて病理部へ送られた月子の組織の検査結果は同年六月二九日に判明したが、その病理検査所見は「(標本組織の)大部分が子宮内膜の腺由来の明白なもので、その中によく分化した扁平上皮の要素を混在している。これは以前に扁平上皮化成が先行していることを示す(中腎由来の腺棘細胞腫は透明細胞の要素を持つ。)。癌であることは明白である。」というもので、子宮内膜癌との診断であつた。

(三)  月子は同年七月四日被告病院の指示によつて入院し、子宮摘出手術を受けることになつたが、月子には子宮筋腫の手術であると説明された。主治医は月子の希望で椋野医師が担当した。なお入院前日の七月三日に椋野医師が月子を診察したときには、月子の子宮の大きさは六月二六日の超鵝卵大から超手拳大に増大していた。

(四)  昭和五六年七月八日月子の子宮摘出手術が椋野医師の執刀で行われたが、椋野医師は、同年六月二六日に提出した組織の病理所見が子宮内膜の癌化を示すものでありその診断結果が子宮内膜癌(子宮体癌)であつたこと、外子宮口付近に出血部位を認めなかつたこと、子宮体部の増大があつたこと、月子が肥満体型であり子宮体癌は肥満体の婦人に多くみられることなどから、術前診断として子宮体癌を考え、子宮全体を両側附属器とともに摘出する単純子宮全摘出術を選択したが、右術式は子宮体癌の手術に通常行われるものであつた。そして開腹すると、子宮体部は正常大で子宮頸部の肥大が著明で、子宮傍組織(子宮を左右から支えている靱帯)は両側とも癌の浸潤がなく、卵巣は両側とも萎縮性であり、膣の横にある組織に血管の拡張や癌性の浸潤も認められなかつたが、子宮が達磨型であり、月子が肥満して脂肪質が多かつたため手術は難航した。摘出後子宮の前壁を開いてみた結果子宮頸部癌であることが判明し、右癌は外子宮口より内部一センチメートル上方から腫瘍を形成し内子宮口よりやや上方まで達しているものであつた。また癌の拡がりの程度に関する分類については、手術直後には子宮頸部を越えて拡がつているという意味で第Ⅱ期aとされたが、厳密に言うと子宮体部への癌の拡大は第Ⅱ期に含めないため本件月子の子宮頸部癌は第Ⅰ期bに分類されるべきものであつた。

(五)  右手術によつて摘出された月子の子宮頸部の癌細胞は同日病理部で組織検査されたが、その病理所見は、「大部分は分化型腺癌であるが扁平上皮癌が一部混在しており、既に深層への浸潤が認められる、この型の癌は子宮頸管腺の扁平上皮化生が分化して癌化したものと解されている」というものであり、浸潤性の腺棘細胞癌との病理診断が下された。また摘出された月子の左右卵巣の組織についても同日病理部で組織検査されたが、腫瘍性の増殖(癌の転移)は認められなかつた。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  椋野医師の子宮摘出手術について

原告は、椋野医師は子宮体癌との術前診断に基づいて術式に単純子宮全摘出術を選択したが、開腹の結果子宮頸部癌である可能性が出て来た以上、子宮頸部癌の場合に通常行われる広汎子宮全摘出術に切り換えるべきであつたにもかかわらず、そのまま単純子宮全摘出術を実施し、その結果月子に癌の再発を生ぜしめた旨主張する。たしかに〈証拠〉によると、進行段階がⅠb期またはⅡa期の子宮頸部癌は術後の化学療法が難しいことや転移の可能性が高く予後が悪いことから広汎子宮全摘出術が最も適応した療法と一般に考えられ実施されていることは原告主張のとおりと認められるけれども、〈証拠〉を併せ考えると、多くの子宮頸部癌は外子宮口部分から子宮膣部に向つて発症するものであり、そのため子宮膣部の一部をも摘出する広汎子宮全摘出術を実施すべきものとされているが、これと異なり月子の癌は子宮頸管内の外子宮口より内部一センチメートル上方から子宮体部に向つて発症していたものであること、膣部に向いた外子宮口部分には癌の発症が認められなかつたこと、子宮傍組織にも癌の浸潤が認められなかつたことなどを併せ考えると、椋野医師が月子の子宮頸部肥大を観察した時点でもなお予定どおり一般に子宮体癌に適用される単純子宮全摘出術を実施し、広汎子宮全摘出術に切り換えなかつたことに過失があると考えることはできないというべきである。

七月子の死亡

1  事実経過

月子が昭和五八年二月二二日に星ケ丘厚生年金病院で死亡したことは当事者間に争いがなく、右争いがない事実、成立に争いがない甲第三、第六、第二六号証、第二八号証の一ないし六、乙第一号証、原告本人尋問の結果(ただし後記措信できない部分を除く。)及び弁論の全趣旨によると、次の各事実を認めることができる。

(一)  右子宮摘出手術後、月子は被告病院産婦人科に入院したまま制癌剤の点摘投与による治療を受けていたが、昭和五六年八月下旬、制癌剤や手術時の多量の輸血の影響によるものと思われる肝機能障害が発生したため、同年九月三日被告病院内科に転科入院した。そして同月一七日慢性肝炎の増悪の確定診断が下され、以後定期的な肝機能検査や腹エコー検査の実施とともに肝庇護剤の投与による治療を受けた結果、同年一一月二〇日頃には肝機能の状態も安定したため、同年一二月一〇日被告病院を軽快退院した。なお、その間月子は同年一〇月二三日と一二月四日の二回被告病院産婦人科で細胞診を受診したが、異常は認められなかつた。

(二)  被告病院を退院した後、月子は昭和五七年三月一九日被告病院に来院して更年期障害症と卵巣欠落症状の診療を受けた後は、近所の医院に転院して丸山ワクチンの摂取や肝機能障害の治療を受けていた。

ところが同年六月二四日たまたま月子が星ケ丘厚生年金病院で診察を受けた際、膣断端左側後方に超鶏卵大の腫瘤が触知され、左傍子宮結合織領域が硬く板状の状態になつていたため、同病院では被告病院で切除した子宮癌の再発及びその膣等への浸潤を疑い、同年八月三一日パパニコロによる月子の膣断端部の細胞診を実施したところ、不規則重複性を示す腺細胞由来と思われる細胞集団が観察され、腺癌罹患が確認された。同年九月二六日月子は星ケ丘厚生年金病院に入院し、子宮癌再発との診断を受け、化学療法や免疫療法等を受けていたが、同年一二月には腹腔内に癌転移による腫瘤及び腹水が確認され、また再発癌の進行は非常に速く昭和五八年一月には右腫瘤は二、三倍に増大し、同年二月初から癌性炎症性腹膜炎が生じ、さらに癌の腸転移による腸閉塞のため同年二月一四日人工肛門造設手術が施行されたものの術後経過は不良で、結局同年二月二二日月子は癌悪液質による心不全によつて死亡した。

以上のとおり認められ、原告本人尋問の結果中右認定と抵触する部分は前掲各証拠に照らして措信できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

2  被告病院の診療と月子の死亡との因果関係

(一)  前記1認定の諸事実に徴すると、月子の死が昭和五七年八月三一日発生が確認された腺癌の浸潤に起因することは明らかであり、また被告病院で発見された子宮癌もその組織の大部分が子宮内膜の腺由来のもので星ケ丘厚生年金病院で発見された癌と組織的由来が共通であること、星ケ丘厚生年金病院で癌細胞の発見された箇所が被告病院で子宮摘出手術を行つた部位と連続する膣断端部であること、右腺癌の発生については星ケ丘厚生年金病院でも子宮癌再発と診断されていることなどを併せ考えれば、星ケ丘厚生年金病院で確認された月子の癌が被告病院で発見、摘出した子宮頸癌の再発したものであると考えられる。

(二) ところで前記三ないし六で検討したとおり、月子の子宮癌に関する被告病院の診療のうち落ち度の存在が問題となるのは昭和五六年六月一一日の廣瀬医師の所為のみであるから、以下廣瀬医師の診療と月子の死亡との関連性について考える。

前記五1及び六1各認定の、月子の被告病院医師に対する報告では右廣瀬医師の診察時までに既に三か月以上にわたつて通常の月経と異なる性器出血がみられたこと、右診察後わずか一四日後の昭和五六年六月二五日に大本医師が診察した時には子宮体が超鵝卵大に肥大して硬化しており、かつ子宮内膜組織も組織診で癌であることが明白に認められる状態になつていたこと等と証人廣瀬多満喜(医師)の証言を併せ考えると、六月一一日の廣瀬医師の診察の時点で既に月子は子宮癌に罹患しており、かつ、その癌はその時点でかなりな程度まで進行していたと推認することができ、したがつて廣瀬医師が当日子宮癌等の悪性腫瘍の可能性をまず想定し、月経等で出血が生じている場合でも可能な組織診を実施していれば月子の子宮癌を発見し得たと認められ、そうすると廣瀬医師は、組織診を実施することなく月子の出血を更年期出血と診断して経過観察に付したことにより、月子の子宮癌の発見を大本医師の診察までの一四日間遅延させたということができる。

そこで右一四日間の遅延と月子の癌再発による死亡との関連性について考えると、前記甲第二七号証の四及び証人伊藤裕の証言によれば、月子の罹患した子宮癌(子宮頸癌)は、放置しておけば早晩死の転帰をとるものの、適正な手術を加えた場合には他の臓器の癌に比べると比較的予後の良い部類に属し、月子の場合のように癌の浸潤が子宮頸部及び子宮体部にとどまつている国際進行期分類上Ⅰ期に属する癌について、わが国における一九五三年から一九六二年までの五年治癒成績をみると80.4パーセント、同期間における長崎大学の五年治癒成績は83.7パーセントとなつており、極めて子宮頸癌の五年治癒率が高いことが認められ(もつとも厳密には右Ⅰ期の中には、肉眼的に発見不可能な臨床前癌であるⅠa期と肉眼的に発見し得るⅠb期の双方が含まれており、右Ⅰa期の五年治癒率は97.2パーセントであるから、月子の場合のようなⅠb期の五年治癒率は前記数値よりかなり下回ることになる。)、したがつて月子の場合もより早期に癌が発見されて手術が実施されていれば他の臓器等への癌の転移を完全に阻止し、もつて月子の死亡を回避し得えたかもしれないという可能性は否定できない。しかし前記六1(五)(六)認定のとおり、本件手術時の開腹所見では子宮両側の子宮傍組織には癌の浸潤は認められず、また摘出手術後の病理組織検査において子宮附属器である卵巣に癌の転移は認められなかつたこと等からみて、子宮摘出手術は成功し右子宮癌は一応除去できたといえるにもかかわらず癌の再発を阻止し得なかつたこと、さらに廣瀬医師の診察と大本医師の診察との間の期間がわずか一四日間にすぎないことなどを考慮すると、仮に一四日早く廣瀬医師によつて月子の子宮癌が発見されていたとしてもそれによつて癌の転移を阻止し月子の死亡を回避し得たかは極めて疑問であり、結局廣瀬医師の右診療上の落ち度と月子の死亡との間にはいわゆる事実的因果関係自体を認めることが困難であるといわざるを得ない。

次に廣瀬医師の診療上の落ち度と原告主張の月子の延命可能性喪失との関連について検討すると、前記のとおり月子の罹患した子宮頸癌は早期に発見され適切な治療を受ければ比較的予後の良い部類に属するから、月子の場合もより早期に癌が発見されればより効果的治療を受けることができ、生存期間も延長されたであろうと考えられなくはないが、本件では廣瀬医師の診察時点と癌発見の契機となつた大本医師の診察時点との時間的間隔がわずか一四日しかなく、右一四日の時間的隔差が月子の死期に何らかの差異をもたらしたか否かは判定困難というほかない。もつとも前記認定のとおり月子は廣瀬医師の診察後二日程経つた頃から再び不正出血が始まり次第に陣痛様の疼痛を伴う大量の出血が続くようになつたのであり、これと廣瀬、大本両医師の病状所見の著しい隔差を考慮すると、右一四日間に月子の子宮頸癌の病状にかなり急激な進行があつたことを推認することができるけれども、昭和五六年六月二五日の大本医師の診察から同月二九日に組織診の結果が判明し同年七月四日の月子の被告病院への入院を経て同月九日子宮摘出手術を受けるまでの間にやはり一四日を経過しており、その間組織診や月子の手術実施につき特別に遅延を生じた事実も認められないから、仮に廣瀬医師の診察で子宮癌が発見されていたとしても子宮摘出手術実施までに一四日程度の期間は不可避であつたと推認することができ、そうするとその間に前記病状の急激な進行はやはり生じていたと考えられるから、右六月一一日から同月二五日までの病状の急激な進行があつたからといつて、廣瀬医師の診療上の落ち度によつて月子の死期が早められたと認めることは困難であるといわざるを得ない。

八抗癌剤の輸液漏れについて

1  子宮摘出手術後月子に対して八回にわたり抗癌剤の静脈内輸液が行われたこと、そのうち最後の昭和五六年八月一一日の輸液実施中に一部の輸液漏れが生じたことについては当事者間に争いがなく、右争いがない事実、〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  子宮摘出手術後、月子は、昭和五六年七月一〇日、同月一四日、同月一七日、同月二一日、同月二四日、同月二八日、同年八月四日、同月一一日の八回にわたり抗癌剤5FU入りの溶液を静脈内に点滴で注入する方法での輸液を受けたが、月子の場合いずれも注射針の静脈内への挿入固定は医師が行い、輸液が終了すれば月子がナースコールし、看護婦が抜針した。そして八月一一日以外の七回の輸液については、七月一〇日実施の輸液の際、途中で月子が滴下を速くさせていたため看護婦が注意したことと、七月一四日実施の輸液の際残り五〇ccとなつた時点で月子がトイレに行きたいと言つたため抜針し、その後輸液を再開しようとしたところ月子がこれを嫌がつたため残液の輸液を断念したとき以外は支障なく進み、輸液漏れ等の事故も全く起こらなかつた。

(二)  ところが昭和五六年八月一一日午後一時四五分頃、堀川看護婦の介助のもとに椋野医師が月子の右手背部の静脈に注射針を挿入固定して抗癌剤入溶液五〇〇ccの輸液を開始したが、その後間もなく月子は輸液漏れと痛みに気付き、一旦自分で輸液を停止したうえ看護婦詰所にナースコールし、これに応じて月子の許に赴いた堀川看護婦に輸液漏れと痛みを訴えたが、同看護婦は抗癌剤入りのボトルを静脈針挿入箇所より下方に下げて血液が逆流して来るのを確認しただけで輸液漏れその他の異常はないと判断し、輸液装置の不整合等その他の輸液漏れの原因を精査することなく、一方的に輸液漏れはない旨宣言して輸液を再開続行させた。しかしその原因は不明であるが右再開後も輸液漏れは継続した。月子は輸液漏れを看護婦に訴えてもそれを取り上げてくれなかつたことからナースコールすることを断念し、痛みを我慢して輸液を続け結局午後四時頃輸液は終了した。輸液終了後の抜針及び装置の除去は他の看護婦が行つたが、その看護婦が輸液漏れとその輸液挿入部位の異常変化に気付き、看護婦詰所の堀川看護婦のところへ月子を連れて来て輸液注入部位の右手甲に腫脹が生じたことを申告したので、堀川看護婦は椋野医師の指示に従いB水湿布の処置をした。

(三)  輸液漏れの薬剤が皮膚内に入つたためか、輸液漏れを起こした注射針等が手甲部を物理的に損傷したためか、その両者の相乗作用によるものかは明確に認定し難いけれども、右輸液漏れ事故に起因して月子の右手背部に腫脹が生じて(はれあがり)疼痛が続き、B水湿布やインテバン軟膏による湿布の処置が行われたものの、右手背部瘢痕拘縮や、伸縮腱癒着による右手第二ないし第五指の屈曲障害の傷害が生じ、(もつとも同年八月一八日の廻診の際、月子が寝間着の小さな釦を右手で外しているところが椋野医師によつて目撃されている。)、同年一〇月一日から被告病院整形外科でパラフィンバスと整形機能訓練による機能回復措置を受け、同月一二月二三日の被告病院退院後も、自宅近所の接骨院で同様の治療を受けたが、月子の右傷害は全快しなかつた。

2 そうすると、被告病院従業員は、月子に抗癌剤を輸液するに際しては細心の注意を払い、およそ輸液漏れの事故を生じないようにすることは勿論、月子から輸液漏れ事故発生の訴えを受けたときはその原因を徹底的に究明して輸液漏れが生じないように処置するとともに、輸液再開続行後も右処置が適切であつたかどうかを点検確認すべき注意義務があるのにこれを怠つたため、月子に前記傷害を生ぜしめたものといわざるを得ないから、被告病院は月子が右傷害によつて被つた精神的損害を賠償しなればならない義務を負担している。

そして、本件に現われた一切の事情を総合考慮すると、月子の右精神的損害に対する慰藉料は金三〇万円が相当と認められる。

九結論

以上の次第で、原告の請求は、右損害金三〇万円とこれに対する昭和五九年二月一二日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官庵前重和 裁判官富田守勝 裁判官西井和徒)

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